「こういうものだから病」について考えた 2

前回の記事の続き

「こういうものだから病」は、詰まる所「思考停止状態」です。

自分から望んでいるとは決して言い難い「こういうものだから病」になっていってしまう要因は、大きく分けて2つあるように思います。

1つは外的要因。
昔からこういうものだから、それに従え。
ライバルがやっているから、ウチもやる。
という他からの明瞭な圧力。

例えば、実際にあるかどうかは別として、ある部活に、伝統の「うさぎ跳びでグラウンド20周」というのがあったとします。

それにどんな意味があるのか。
他のこんな練習で代用できるのではないか。
もっと別の、負担が少なく効率のよいやり方があるのではないか。
そう意見する人がいたら、場合によっては20周が30周、40周になるかもしれません。
「こういうものだから」です。
そして「こういうものだから病」に侵された人が、次世代に「こういうものだから」と引き継いでいきます。

ここで大事なのは、「うさぎ跳びでグラウンド20周」の練習自体が、いい悪いという話ではないことです。

試合に勝つためには、今年のチームはスタミナが足りない。
→スタミナをつけるには足腰の強化が必要。
→足腰の強化のために、うさぎ跳びで鍛錬する。

これならよくわかります。
納得いきます。

思考停止状態になると、手段が目的になったりします。
これ結構こわいことです。

もう一つは、内部要因。

目に見える外部圧力はないにも関わらず、人と違うことをすることに対して自分の中に芽生える恐怖や面倒くささからくるものです。

人と同じことをするにおいて、世間や周囲を説得することは、比較的簡単です。
A社がやって成功しているから、という理由なら周りは反論しづらいし、前例があり上手くいくイメージもしやすいので、「なにか違うかも」という想いを抱きつつも、「こういうものだから病」に自分からかかりに行ってしまうわけです。

前例がある「こういうものだから」に反意を表して上手くいかなかったときの恐怖は、誰しも避けたいもの。
その防衛本能が、自らを「こういうものだから病」に向かわせてしまいます。

個人的な信念ですが、全ての人は、本来自分の人生を自分で選択して生きていけるはず。
それこそ本当の自由であり自立であるはずなのに、必ずしも自分自身の望まない、見えない、大きな、別の、誰かや何かの人生をなぞって生きてしまうことがあるのは、「こういうものだから病」の2つの要因によるのかもしれません。

続く

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