セント・チフィーロの神隠し

以前、宮崎駿監督のアニメ、千と千尋の物語を家族で見に行き、大いに感動しました。国際映画祭で賞を取ったのも当然の作品です。オヤジギャグ大好き人間の私は、環境系団体のホームページに、小説「セント・チフィーロの神隠し」を書こうと思うと書き込んだところ、皆、大笑いで、冗談だと思ったようです。山村の教会に赴任した神父が、森が切り払われ荒れ果てた山に木を植える話なので、環境系の人たちなら支持が得られるかなと思ったのですが…
しかし、私の頭の中では着々と作品の構想が練られ、その後、1ヶ月ほどで最初の登場人物のセリフからエンディングの様子まで、ほぼ固まりました。あとはワープロに向かって、ひたすら書き上げるだけです。
ところが、コラムやショートショートの短編小説ばかり書いて来た私には長編小説を書くのは荷が重く、まだ手が付けられていません。このブログのように1時間ほどで書きあがるのであれば、ササッと書いてしまうのですが、長編となると数ヶ月、もしかすると1年以上は掛かるかも知れません。
近々、「楽隠居」を決め込んだら、会社の隣、今、仮設事務所に使っている建物の書庫に隠居部屋を作ってもらうことにしているので、ブログも小説も、そこで執筆する予定です。これで書き始められるでしょう。
日本では山の木を伐ったら、また植えると言うことは鎌倉、室町の時代から当たり前のことのように行われて来ました。広葉樹の中にはわざわざ植林しなくても切り株から新しい芽が出て、天然更新するものも多いですが、スギにしてもヒノキにしても天然更新に頼るのではなく、人が植え、育てるのが基本でした。年月は掛かりますが樹木は農作物と同じ感覚で育てられてきたのです。
しかし、ヨーロッパにおいては、森は暗く危険な場所で、魔女や悪魔が棲むとされるところでした。住宅用や家具材、そして寒い冬の貴重なエネルギー源として木材は珍重されてきましたが、一方で牧場や農場などを造るとなるとアッサリ森は切り開かれてしまう…
今でこそ先進国では環境保護、自然保護の必要性が理解され、安易な森林破壊は無くなりましたが、南米や東南アジア、アフリカでは、まだまだ自然保護より経済優先です。これに警鐘を鳴らしたい。
自分で書くのもナンですが、私がこの小説で一番気に入っているセリフは、神父様に引き取られた子供が「神父様、なぜ神様はオオカミをノアの方舟に乗せることを、お認めになられたのでしょう?」と聞くところです。当時のヨーロッパでは家畜や人間を襲う害獣とされた生き物も、けっして人間の敵ではなく、自然界の一部なのです。そんなテーマの小説を書きたいと思っています。